私の両親は真面目でしつけに厳しい方でした。
迷惑をかけない、お行儀よくする、無駄口をたたかない、電車に乗っているときは他の人の
迷惑にならないようにおしゃべりしない… などなど、四角いものは四角い、丸いものは丸くなる
ように努力する、いまでいうグレーゾーンがない、そんな生き方をしてきました。
そして、いつまでたっても四角四面のままで、自分を出さずに大人になりました。
昭和時代ではいい印象をもたれやすくて目上の方からは不思議と可愛がってもらえました。
(年齢がわかりますね💦)
でも、なぜか冗談がいえなくなっていました。
面白いことを言ったり、人を笑わしたりすることが出来なくなっていました。
うけを狙うよりも知的にみられるようにしていました。(若気の至り、だったのかもしれません)
そのなかで
唯一、自分を表現できた場所が「舞台」でした。
私は舞台に立っていることが大好きでした。
中でも踊っているときが一番好きで、ライトを浴びながら色んなジャンルの音楽にあわせて
踊っている時は、そこでは四角四面に生きなくていい時間と場所でした。
残念ながら、結婚と同時にすべて辞めてしまいましたが…
それを、とても後悔しています
その時は、これまで十分に好きなことをさせてもらったから、
これからは自分の事は置いておいて、家族のためにがんばろう、と心に決めてしまったのです。
振り返ってみると、
目先のだけの幸せになることだけしか考えていなく
何十年先のことは予想すらしていなくて。
私は、舞台に立つことが実現したあと、
その後の人生の設計図を立てていなかったことに子育てが終わりかけたころに気付きました。
ものすごく生きずらい生き方をしていた、と自分自身、反省しています。
ただ、その時々は間違ったことをしないように一生懸命だっただけなのですが…
過去の出来事は自分で選んだ結果、といわれていますが、
私は、誰かのために生きるようになっていたことにも気付きました。
それは、母親でした。
50代で他界した父親の未亡人になったときから
「可哀そうなおかあさん」を励ますために私は頑張るようになりました。
まず、母親が喜ぶようなこととは…?を考えるようになり、
公私ともに何をするにも母親を基本にしていました。
ですので、いつまでたっても自分軸で生きることはできず
母親や他人のために頑張ることで、自分の欲求を満たしていたのです。
でも、その他人がしあわせそうであると気付くと、その人から離れて
また自分を必要としている人を探して、その人がしあわせになってもらえるようにお手伝いしてい
ました。
人のために役に立つことした私を母親はとても褒めてくれていたので、褒められたことに満足し、
両親からひとのために役に立つように、と教え込まれていたことがしっかり活かされていたのです
が、自分のことはいつも置いてきぼりでした。
同時に私はある特定の女性から(母親以外で)支えてもらったり、大切にしてもらうことを
必要としていました。
「愛」してほしかったのです。
わたしに注意をしてくれて、励ましてくれ、人間として成長させてくれる人を求めました。
━ここでわかるのは、自分の機嫌を全く自分でとれなくなっている、ということです。
なぜか母親に頼ろうとは全くおもいませんでした。
私の中のちいさな私は、これまでずっと声をあげて泣いていたのです。
そのことに全く気付かず、
頑張れば何とかなる、という古い教訓を何度も繰り返し、
うつになって初めて、間違っていたことに身をもってしりました。
頑固、真面目過ぎ、一生懸命やりすぎる、自己中心だったわたし。
そんな私がいまでは、
いまは昭和ではなく令和の時代にかわってきていて、
もっと自分のこころの声をきいて、
やりたいことをやる、
伝えたいことを伝える、
がんばらずに、がんばって自分らしく生きる。
一度きりの人生を楽しみましょう!
と、カウンセリングさせていただいています😊
今の自分は何をしているんだろう、
わたしってどうしてこんなに涙がでるの…
いきる、ってどういうこと…
など、人には聞きづらいなぁと思うことをお話してみませんか。
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